(最終更新: 2016/12/08)

昨今の人工知能ブームを語る上でIBMのWatsonの存在は欠かせません。 IBMがWatsonの研究に着手してから10年が経過しました。 今もWatsonは目まぐるしい変化を続けています。 様々な技術が集約され、誰もがWatsonを利用できる時代になりました。

同時にWatosonとは何か、及び人工知能が何たるかが非常に分かりにくくなっている一面もあります。 Watsonに加え、Watson切っても切れない関係にある「Bluemix」「コグニティブ・コンピューティング」から、ビジネスとしての人工知能をみていきます。

Watsonの登場と変遷

Watsonの誕生

2011年2月、米国の国民的クイズ番組「Jeopardy!」にて、はじめて「Watson」の名前を冠した人工知能が人々の前に登場しました。 同番組では、Watsonがクイズで実績を残してきたプロたちを抑え最高賞金を獲得しました。

「Jeopardy!」は、歴史、文学から科学など幅広いジャンルを扱うクイズ番組です。 短時間で正確な回答をするために、質問が含む微妙な意味や風刺、謎掛けなど分析しなければならず、当時は機械には相当難易度が高いと考えられるチャレンジでした。

当時のWatsonは、膨大な自然言語情報を分析し、問題に対して最適な回答を導き出す分析システムでした。 インターネットには接続されておらず、約100万冊の書籍に相当するデータをローカルに蓄積。 また、クイズ番組のルールに沿って、賭け金の設定や自信よる回答の有無なども自らおこないました。

研究開発期間は4年に渡り、様々な人工知能に関連する技術が用いられました。 それらの技術をもって、当時のWatsonはこの難題を攻略してみせたのです。 この出来事はニュースなどでも大きく取り上げられ、「人工知能」が広まるきっかけとなりました。 そしてWatsonの名も、広く一般的に知れ渡ることとなります。

コグニティブ・コンピューティングへの発展

Watsonの発展

膨大なデータから質問に適切な回答を構築する、質疑応答システムとして生まれたWatson。 IBMはこのシステムが、医療などの専門分野へ応用が可能であると考え研究を進めました。 この専門分野への活用を成し遂げる指針こそが「コグニティブ」の考え方です。

IBMの推奨する「コグニティブ」とは

コグニティブは日本語で「認知」と訳され、自ら考え、学習し、自分なりの答えを導き出すことを指します。 つまり知覚・記憶・推論・問題解決などの知的活動をおこなうシステムが「コグニティブ・コンピューティング・システム」です。

IBMはこのシステムの目的を「人間の認知活動の拡張と意思決定の支援」としています。 ニーズを的確にくみ取る、膨大な情報を検索する、関連性の高い順番に候補を提示する、結果を学習し次回の回答の精度を上げる。 「コグニティブ」なシステムは、人間の知的活動を助けるシステムです。

「人工知能」と「コグニティブ・コンピューティング」はゴールが異なります。

人工知能のゴールは人間の頭脳を模倣し、再現することです。 これは人間により近い存在を目指すシステムです。 一方で、前述の通りコグニティブ・コンピューティングは人間の認知活動の拡張と意思決定の支援を目的としています。 つまりゴールはあくまで意思決定のサポートであり、人間に寄り添うシステムといえます。

人間に近づくシステムと人間に寄り添うシステム。これらは向かう方向性が全く異なります。

コグニティブ・コンピューティング・システムとしてのWatson

開発当時のWatsonはクイズという制約下で、与えられた問題に対して回答をおこなう人間に近づくシステムでした。 そこから与えられた問題に対して、人間が回答するためのあらゆる支援をおこなう人間に寄り添うシステムへと発展していきます。

Bluemixの登場

誰もがWatsonを利用できる時代へ

2013年11月、IBMはスーパーコンピューター上で稼働するWatsonを、クラウドを通じてデベロッパーやコミュニティーに公開することを発表しました。

そして、翌年にはIBMが10億円の予算をもって開発を進めた「Bluemix」が公開されました。 Bluemixはクラウドのサービス上で開発環境や実行環境が利用できるPaas(Platform as a service)です。 そのBluemix上で利用可能なAPIのひとつとして、Watsonが提供されます。

これにより、全世界のユーザがWatsonを利用できる環境が実現しました。

Alchemyの買収

AlchemyApi

http://www.alchemyapi.com/

2015年の3月、IBMは人工知能開発をおこなうAlchemy社を買収しました。 Alchemyは、ディープラーニングの技術を活用したソリューションを企業向けに提供する企業です。

近年話題のディープラーニングは、情報から優れた洞察を得るために非常に有用な技術です。 これはコグニティブ・コンピューティングとの親和性も非常に高いことを意味します。

そこでIBMはリアルタイムデータ分析、非構造データ処理などを得意とし、 高度なデータ処理能力を有するアプリケーション開発を支援してきた実績のあるAlchemyをWatsonに組み込む決断をしました。

もともとたくさんの人工知能技術の集合体であるWatson。 そこに強力なディープラーニングの技術が追加されることでさらなる進化を遂げます。

「Bluemix」のWatsonと「IBM」のWatson

現在の「Watson」と呼ばれるものは2つあります。 1つはBluemix上でAPIとして提供されるWatson。 もう1つはIBMのコグニティブ・コンピューティング・システムとしてのWatsonです。

「BluemixのWatson」は「IBMのWatson」の一部を切り出し、誰もが利用できるようにしたものと言えます。

それぞれについて、詳しく掘り下げていきます。

「Bluemix」のWatson

現在はBluemixのサービス上で誰もがWatsonをAPIという形で自由に利用することができます。 機能追加や精度向上が日々繰り返されています。

実際にどのような機能が実装されているのか、日本語対応が既に完了している主要なAPIについて紹介します。

Natural Language Classifier

NLC

https://www.ibm.com/watson/developercloud/nl-classifier.html

Natural Language Classifier (NLC)は、テキストを分類するためのAPIです。 ユーザがデータ与え、それによって訓練された独自の分類器を用いて分類をおこないます。 NLCは今後Watsonアプリケーションを開発するうえで重要な役割を果たすAPIです。

以前のWatsonの分類器とその違い

クイズ番組で実現されていた当時のWatson質問応答システムは、ルールベースシステムによって質問テキストの分類を行ってきました。 さまざまな観点から質問を分析し、大量のリソースを使用して数千数万の回答候補を検証。 その中からもっとも確信度が高い回答候補を選択します。

ユーザの質問がどのようなカテゴリに属するかを分析し、確信度を出すというのも一手法として取り入れられています。 クイズ番組であればそれに特化した形に調整をおこないます。 チューニングが必要で汎用性に欠けるため、さまざまな目的に対応するためにはその分の時間を要します。

NLCでは、質問分析を深層学習で行うことができます。 すでにデフォルトで構成された知識モデルが存在しそこに自分で専門知識を追加することで、自然な分類器が作成できるようになっているようです。 NLCは深層学習(deep learning)技術によって汎用性を持たせた、専門性の高いテキスト分類を実現するAPIです。

Retrieve and Rank

R&R

https://www.ibm.com/watson/developercloud/retrieve-rank.html

Retrieve and Rankはドキュメントから質問に関連のありそうな語句を検索し(Retrieve)、回答の優先度を変化させる(Rank)ことで、適切な回答を上位の候補に持ってくる機能を持つAPIです。

適切なランク付けをおこなうために、予め基礎知識を学習させることが必要になります。 Apache Solrという全文検索システムを用いて、ドキュメントからの検索をおこないます。 そして学習した基礎知識を参考にして、検索結果の優先度を導き、回答候補の順序を入れ替えて結果を出力します。

Personality Insights

Personality Insights

https://www.ibm.com/watson/developercloud/personality-insights.html

Personaly Insightsはユーザの性格や傾向を分析することができるAPIです。 メールやSNSなど、ユーザーが入力した十分な量のテキスト情報から、ユーザに関する属性を知ることができます。

性格の出力

社会心理学の理論にもとづいた複数の因子として性格や傾向は出力されます。 具体的には以下のような項目があります。

  • personality(5因子) - Goldbergが提唱するパーソナリティに関する指標です。Big Fiveと呼ばれ、性格診断でよく利用されます。

  • needs(12因子) - Universal Needs Modelに基づいた、ユーザの関心の指標です。

  • values(5因子) - 基本価値理論に基づく、価値観に関する指標です。

それぞれの因子に関して、0.0~1.0の値が出力されます。 personalityの指標に関しては、さらに因子ごとの細かい要素が設定されており、それぞれにも値が割り振られます。

以上の数値から洞察を得ることで、ユーザーの性格にあった対応や返答、推薦ができるようなシステムを開発できます。

Conversation

Conversation

https://www.ibm.com/watson/developercloud/conversation.html

Conversationは、会話風のインタフェースによってユーザとやり取りをおこないます。 Webアプリケーション上で質問とその返答を記述していくことによって、プログラミングなしでも簡単に対話機能を構築することができます。

ConversationのWebインタフェース

Webのアプリケーション上で会話に関する学習をおこないます。 質疑応答の流れを下図のようにつなげていくことによって、さまざまな用途に利用することができます。

ConversationのWebアプリケーション

https://console.ng.bluemix.net/catalog/services/conversation/

また、質問のやりとりの内容を5パターン以上記述することになっています。 これWatsonがその内容だけでなく意図を学習し、完全に一致する表現でなくとも適切な応答をできるようにするためです。

チャットボットや質疑応答のシステムなどに応用が期待できます。

その他のAPI

紹介したAPIはBluemix Watsonのほんの一部です。 Bluemixでは15以上のWatson APIが提供されています。 これらを組み合わせることで、既存のアプリケーションでもさまざまな応用が可能です

また、今後の言語対応が期待されるところとしては、前述のディープラーニングを利用したAlchemyを用いたAPI群が挙げられます。 その他サードパーティ製のライブラリなども追加され、今後アップデートや統合が進んでゆくでしょう。

「IBM」のWatson

紹介してきたAPIは機能毎に整理されたコグニティブ・コンピューティング・システムの一部です。 ではその母体であるIBM Watsonはどんなことができるのでしょう。 IBM Watsonではデータの蓄積から、専門データの活用までを支援するビジネスソリューションを提供しています。

IBM Watsonの提供する6つのサービス

IBM Watsonは「コグニティブ」なビジネスソリューションとして以下のサービスを提供しています。

IBM Watson

https://www.ibm.com/smarterplanet/jp/ja/ibmwatson/

Watson Knowledge Studio

(2016/12/08: 「日本語非対応」と記述していましたが、日本語にも対応しています)

コードを書かずに、辞書や文書を読み込ませることでWatsonに専門性の高いデータを学習させることができるアプリケーションです。 成果物を共有したり、後述のIBM Watson Explorerに展開できる機能を持ちます。 専門分野のエキスパートになったWatsonは、専門家の意思決定を支援します。

Watson for Clinical Trial Matching(CTM)

Watson for CTMは新しい治療薬の効果を人間で試す臨床試験のマッチングを支援するサービスです。 臨床試験の内容と患者の診断記録から関連する属性を抽出し評価。 最適な試験及び患者を推薦します。欠けている条件などがあれば、その洗い出しもおこないます。 効率よくマッチングすることで、患者・医療機関双方に多くの選択肢が与えられ、 製薬会社も効率的なリクルーティングや期間短縮を期待できます。

IBM Watson for Oncology

がんの専門医がより適切な治療判断をおこなうために、広範なデータから患者の医学情報を分析し、治療法の選択肢を提示するサービスです。 電子カルテの内容について、それを基に患者の治療に重要なポイントをWatsonが整理します。 こんな検査をしてはどうかといった提案もおこないます。 提案をする際には、その根拠となる症例を示します。

Watson Discovery Advisor

Watson Discovery Advisorは、Watsonの持つ膨大なデータを利用して、専門領域における異質なデータを調べ、洞察を得ることができるサービスです。 特に医療分野に特化したWatson Discovery Advisor for Life Scienceでは、臨床試験データやゲノム、薬剤、人体解剖学などの領域における専門知識を活用し、固有の語彙からも有用な洞察を得ることができます。

IBM Watson Explorer

IBM Watson Explorerはテキストマイニングや分析をおこなうソフトウェアです。 このソフトウェアには前述のAlchemyが活用されています。 高度な分析によってサービスの傾向やパターン、相関関係などを見出します。

IBM Watson Engagement Advisor

Watson Engagement Advisorは顧客対応や質問への回答など、人とのインタラクションをおこなう質疑応答システムです。 これはコンシェルジュやヘルプデスクなどで利用できるものです。 話の文脈を分析し、最も適切な解決策を提示することができます。

サービスとしてのWatson

以上から、サービスとしてのWatsonは以下を提供するものと考えることができます。

  • Watsonの一部が利用できる分析ツールの提供

  • Watsonが持つ膨大なデータに専門知識を組み合わせて利用するサービス

  • 医療関連のデータとその知見の提供

今後サービスの提供を通して、様々な専門知識がWatsonに集約されるでしょう。 医療以外の分野に対しても、専門性の高い様々なサービスを提供していくと考えられます。

IBM Watsonの導入事例

IBMは膨大なデータやアクセスのある大手企業などの問題を解決する策として、IBM Watsonを提供しています。 その事例を紹介します。

みずほ銀行のコールセンターシステム

みずほ銀行では、2015年より一部のコールセンターにワトソンを利用したシステムを利用しています。

オペレーターが電話を受けると、Watsonが会話内容をリアルタイムで読み取り、必要であると予測される情報をオペレーターの見ている画面上に出力します。 マニュアルや店舗、Webサイトの商品、サービスなどの情報を、会話の内容から判断し、優先度の高い上位10件を表示します。これによって、オペレーターは問い合わせの内容に対し迅速に回答をおこなうことができるようになります。

そして回答候補の提示に関しては、正答率が90%という数字を叩き出しています。 これは9割もの問い合わせに対して、迅速な回答を実現し、時間コストを削減したということになります。

これにはBluemix Watsonの項で紹介したNatural Language ClassifierやRetrieve and Rankといった技術が用いられています。 音声から返還されたテキストデータを素早く認識、分類し、回答の候補にランク付けをおこない、優先度順に返しているのです。

同社は感情認識などの技術を複合的に用いることで、今後の精度向上を目指します。

第一三共の創薬支援

第一三共では2016年より、創薬に関する研究者の英知や勘を、Watsonに集約する試みを始めています。

新薬開発のためには、100万種類に及ぶ化合物のデータベースと、その薬の対象となる物質に関する情報から、薬の候補物質となる化合物を検証していきます。 現在は、疾患に関する分子レベルの情報があったとしても、100万個の化合物からスクリーニングしなければなりません。

過去の大量の文献データをWatsonに学習させることで、過去の研究者の膨大な知見や実績からこのスクリーニングの作業を効率化することができると同社は考えます。

従来の新薬開発には莫大な予算が必要とされていました。 1製品の開発に10年、1000億円を費やすのは当たり前だそうです。 素晴らしい医薬品をいち早く消費者に届けるためには、「成功確率を少しでも高めること」が最重要です。

この英知や勘といった概念に関してWatsonが正しく学習でき、それが成果に結び付く関連を持つのかは注目が集まるところです。 新薬開発の状況を打破する手段として、Watsonの活躍に期待が高まります。

Watsonはどこへ向かうのか

IBMの目指す「コグニティブ」と「人工知能」の住み分け

IBMはコグニティブ・コンピューティングを人工知能とは別であると主張しています。 しかし、コグニティブ・コンピューティングが人工知能技術をフルに活用していることも事実です。

これらを住み分けはどのようになっていくでしょうか。 人工知能技術を利用しているかどうかではなく、システムが意思決定をおこなうように見えるかが重要なポイントになります。

Hanson Robotics社の感情を表現するロボット「ソフィア」Microsoftの学習型人工知能ボット「Tay」の登場は、人工知能が人間の脅威になりうるかという議論を呼びました。 DeepMindの「DQN」や、Microsoftの「りんな」もそのような議論に深い関連がある言ってよいでしょう。

これらは自らが発言し、意思決定をおこなうように見える機構を持つ「人工知能」です。

Watsonはそれらの挑戦的なプロジェクトとは一線を画しています。 あくまで「意思決定のサポート」の機能のみを提供します。 人間に寄り添うシステムとして、Watsonはこれからも存在し続けるでしょう

ビジネスとしての人工知能

IBMはどうやら、ビジネスとしての人工知能に注力しているようです。 それらを「コグニティブ・ビジネス」と呼び、コンサルティングなども精力的におこなっています。

これは他の人工知能に関心のある大企業とは少し異なるアプローチであると言えます。 「コグニティブ」というフレーズはIBMのブランディング的な側面も大いにあるでしょう。

「コグニティブ」は「研究としての人工知能」と「ビジネスとしての人工知能」を明確に切り分ける指標にもなります。 Watsonは「ビジネスとしての人工知能」としての側面がより一層色濃くなるでしょう

アプリケーション化

ビジネスとしての人工知能を達成するためには、人工知能が「誰にでも手軽に利用出来る」ことが望ましいです。 Bluemix WatsonのConversationAPIやIBM Watsonのサービスに見られるツールの提供は、誰もがWatsonを利用し学ばせることができる工夫がなされています。

ニーズの大きい機能に関して、Watsonはその一部を誰もが利用できるアプリケーション」として提供していくでしょう

新技術を取り入れるコグニティブ・コンピューティング・システム

Watsonの本質は「有用な技術をいかにキャッチアップするか」にシフトしています。 Watsonはコグニティブシステムとして意思決定支援や対話の価値を高めるために、最新の手法や理論を吸収し、より精度を高めていきます。 この働きは今後も続くでしょう。

もしかしたら、今後のWatsonは人工知能以外の手法を取り入れ、あっと驚く形で変貌を遂げるかもしれません

まとめ

  • クイズの回答をおこなう人工知能として誕生したWatsonはコグニティブ・コンピューティング・システムへとシフトした。

  • コグニティブコンピューティングとは、人間の知的活動を支援する「人間に寄り添う」システムである。

  • IBMのコグニティブ・コンピューティング・システムとしてのWatsonと、Bluemix上で提供されるAPIとしてのWatsonは別物である。

  • Watsonは今後人間に寄り添うシステムとしてビジネス的な側面が一層強くなる。

昨今の人工知能技術に関する議論はビジネス、研究、哲学などたくさんの要素が入り混じっているように思えます。 それらを明確に切り分けるアイデアとしてのWatson、コグニティブ・コンピューティングをぜひ意識してみてはいかがでしょうか。